やっぱりこれですよね♡

何かをやるときにやはり原動力となるのは、その行き着く先に確実にある体感覚なんだなぁと改めて思った春休みでした。

 

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気持ちいい〜とか

 

面白い〜とか

 

いい匂い〜とか

 

美味しい♡とか

 

身体が心が揺さぶられるような心地よいリズムとか

 

綺麗♡♡♡とか

 

 

心とか脳とかで感じる前段階での、わけもわからずに身体とか内臓とかがぐわ〜んと反応するような快感。

 

それを身体が覚えているからこそ、たとえ無意識にでもまたその感覚を求めてその感覚を手に入れるために、人は色々なことをやろうと動くんだなぁと思います。

 

子供のやる気も然り。

 

まずは方法でも理屈でもなく、身体が覚えきってしまうほどの体感をさせること。

 

そうすれば、ドーパミンセロトニンオキシトシンかはたまた別のホルモンか。

 

何か反応した好みの感覚を得ようとして、必ず自分で考えて探して求めて動き出すのです。

 

ていうことは、まずは自分から。

 

内臓からぐわんと沸くような、最高の幸せ体感してますか?

 

 

満開の桜とともに

今年は桜が綺麗に満開になりましたね。

 

お花見宴会こそしなかったけど、今年は満開の桜の下を何度も、子供達と、一人で、お散歩したり移動したり…

 

そろそろ散り始めたから、今度は桜吹雪とピンクの絨毯。

 

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日本人で四季あればこその、色彩と香りと空気の重さの肌感覚の移ろい方。

 

便利でデジタルな楽しみもたくさんなこの時代に産まれてきた子供達とも、意識して共有して行きたいなと思いました。

 

春休みで子供達と過ごしていると、特にそれぞれが忙しくなって普段は本当にやらなくなった3人連れてお出かけとかしていると、子供達それぞれの今が、どんな風な意識と感覚で今を生きているのかが手に取るようにわかります。

 

ほんの数年前までは子供達を楽しませて、その姿を私は楽しみに観察するためにしょっちゅうお出かけしていたけれど、それも終わった今はお出かけも私都合で花見散歩と美術館鑑賞などなど。

 

満開の桜の下を歩きながら姉さんは、「桜は葉っぱと一緒に咲かないで花の色一色になるから綺麗でいいよね〜〜」って

 

そして、私が展覧会を観ている待ち時間には弟達を探し回りつつの公園内を隅までぐるっと散歩して、花自体にはたいして興味もないはずだけど桜たくさんの広場や公園がどこまで続いているかを意味なく探検してなんだかほっこり満足してる。

 

兄さんは、公園の地図を見てアスレチック広場という表記を見て勝手に自分のイメージする素敵なアスレチックがあるという事実を作り上げ、弟引き連れて公園内をずっとアスレチック探し回っていたらしく、、、私が一時間半も経って戻ってみたら、まだ遊んでないんだよ!って(笑)

いや、多分あそこのまだ工事終わりかけの柵も残りつつちびっこが遊んでるあそこがアスレチック広場だと思わなかったのかしら⁇

目指して荷物置き場を確保したはずなんだけどね。

 

そして、2人で散歩してた昨日の帰りにはふと「ねえ、自分の顔って絶対自分では見えないよね!俺いつも鏡見るとなんか変な顔だなぁって思うんだけど…。」って

 

そうちゃんは、「お母さんも手にぐるぐるある?転んで絆創膏貼ってもらった時に、そうちゃんの手にはぐるぐるがあったんだよ!」って。

どうやら指紋に気づいたらしいのです。

 

普段はもう、子供達に以前のような強い関心はなくなったけれど、適度に意識を手放しているからこそ感じられる子供達の今の感覚。

 

要所要所で確認して共有しておき、またしばらく自由に外の世界で楽しめるように手放しておくのです。

 

満開の桜の下に一人で立つのがすごく好きです。

 

坂口安吾を思い、桜の魔力であっちへの扉が開いているのを肌で感じながら…。

実は意図せずハマりやすいのね

久しぶりの更新です。

 

日々色々感じながら考えながら、それでもなかなか言葉には落とせずに過ごしておりました。

 

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昨日初めて、噂には聞いていた「預言カフェ」なるところへ行ってきました。

これからも歩んでいく日々の中で、心にいつも置いておける小さな宝物のような素敵な言葉をいただき帰ってきました。

迷った時にはいつも思い出せるような、祈りとはこういうことなんだなぁと体感した感じです。

 

 

私はずっと、何かにどっぷりとハマりこむのを意識的に避けてきました。

 

ハマっていた日々の思い出は人生で2度。

 

中学校でのバドミントンの部活動と、ファッションの専門学校でのパターン作成。

 

きっとその間は集中しすぎていて他のことはあまり感じなくなっていたのだと思います。

 

部活引退した後にふと、一時間の授業ってこんなに長かったっけ?1日ってこんなにたくさん授業受けてたの?もう飽きちゃったなぁ…と。2年半通った中学校で、その時になって初めてそんなことを思い虚しくなったのをよく覚えています。

 

専門学校でも、どちらかというとファッションというより理想のバランスや形を作りあげることに、その2ミリ3ミリのズレに命かけてた日々。でもすぐに業界に就職は決まらず家でボーっとしてた時にふと、自分が今服を買うとしたら何を買う?2ミリ3ミリのズレに命かけて完璧なパターンで作られた服なんて絶対買えないし買わない。私には必要ないじゃん!と思った時に、楽しかったけど私何やってたんだろう?って無性に虚しくなったのをよく覚えています。

 

それ以来、周りで起こっているそれ以外のことが全く見えなくなるようなどハマりはしたくないと思いながら、好きなことも興味沸いたこともちょいちょい楽しみながら、うまく美味しいとこどりして部分的に取り入れて歩んできました。

 

それなのに…実はこの10年間、全く意図せずに子育てにどっぷりはまり込んでいたようです。

 

専業主婦として他の居場所を持たずに子どもと四六時中向き合っているのはすごいと言われ。

 

専業主婦なのに家事はあまり好きではなくて、家をすっきりさせておくことも段取りよく家事をこなすことも出来ないのを⁇不思議がられ。

 

考えてみれば、女としての自分にも、家の居場所としての快適さにもほとんど目のいかなかった10年間でした。

 

子供達と一緒に、見て、聞いて、匂って、味わって、触れて、身体全部を使って感じること、考えること、経験すること。

沢山のことを体験させて好奇心を沸かせて、手を離して一人で立つようになる6歳の時に、自分を取り巻く全てをワクワクキラキラ見ることが向かうことが出来るようにと。

 

そんな風に子育てだけしていたら、その効果は一緒に育てている旦那にもちゃんと伝わるので、苦手な家事の至らなさを責められたりしたことはありませんでした。

 

それに、ついこの間気がついたのです。

 

でも今回は虚しくはなりませんでした。

 

ここからは、女性としての自分と快適な環境を整えることに、特にもうすでに自分の女性性を輝かせることに興味津々です。

 

すでに気づけば少しづつ、引きこもって少女漫画を読みふけっていた昨冬のまずはときめきを取り戻すというところから始まり、2次元の疑似恋愛にドキドキしたりしながらお肌のお手入れを丁寧にやったり身体のラインを整えようと意識したり、女性性さらに開花への道にどっぷりハマりかけてるのです!

 

だって、40代からは元から美人と雰囲気美人が形成逆転するんですってよ!

もうこんなの知ったらワクワクするしかしないじゃないですか(笑)

 

なんともはや…習性とはおそろしいものです。

 

 

 

 

 

 

夢と現実を行き来する方法

以前ここでもチラッと触れた、能楽師 安田登さんの著書「あわいの力」やっとやっと読み終わりました。

 

何ともいえない素晴らしい本でした。

 

考える、感じる、思う、それだけではとても足りない思わず内臓がグワッと動いてしまうような身体感覚。

 

そんな色々なものがこれでもかとギュッと詰まった一冊、これは購入して手元に置いておこうと思います。

 

その中にもたくさん出てきた、この世とこの世でない冥界や異空間をつなぐあわい、そしてその役割をするワキという存在。

 

身体は心と外界をつなぐあわいの役割があるというのにハッとさせられました。

 

たしかに、心の問題が肥大している現代人は身体感覚が鈍くて、うまく心と外界を繋げて自由に行き来することが出来ていないのだなぁと思うのです。

 

言葉や芸能や香りや音そして自然によって、そこにないものを見立ててそこにいながらにして瞬時にあっち側にいくという経験も、今は意識してその機会を得ないとなかなか日常の中にはないですよね。

 

私の中で馴染みやすいのは、夢と現実という感覚かな。

 

私はどちらかというと、日常的に夢の世界にいきがちです。

そして、家族の一員である旦那は完全に現実の人。

 

だから私はいくら浮遊していても、家族がいて家がある限り確実に現実に引き戻してもらえるのです。

 

最近ふと、とてつもない孤独感や寂しさに襲われることがあります。

私にはよくあることです。

仕方ないのですよね、所詮人は一人ですから。

一緒にいても、共感しあっても、結局は自分一人で感じる以外できないからこそ、その一人という不安に押しつぶされそうになります。

 

今日の朝、幼稚園お休みの息子と2人どうしようかとグダグダしていながらも、またとてつもなく寂しくて、そうなると全く何もやる気はおきなくて…。

 

その時ふと、この寂しさに浸っていても何もなく生きていられる私はなんて幸せで愛されているんだろうと思った♡

 

だからそれを文字にしてフェイスブックに投稿したら、見てくれた人がいて、その最初の1人が共感してくれたのを見て、寂しい孤独という夢の世界から現実世界に戻って来れたのです。

 

夢と現実をきちんと見極め行き来して過ごすこと。

 

あらゆる問題解決にもこれが一番手っ取り早いのではないかなと思います。

 

丁寧に伝えること

子供達と過ごす時間がほとんどの私に対して、お父さんは平日はほぼ子供達が起きる前から寝る時間まで仕事に行っているから大人と過ごす時間が圧倒的に多い。

 

そうするとね、休日になってお父さんが子供達と過ごす時、特に平日の仕事で身体が疲れているから何か子供達が当たり前にお父さんと一緒にこうやって過ごせると期待していることをちょっと変更したいとかこれをやってしまうから待って欲しいとかを伝えようとしても、子供には上手く伝わらなくて関係が崩れる瞬間があるの。

 

普段は大人に伝えることが当たり前だから、一定以上の常識的感覚を持つ相手に伝わる最低限の方法でしか伝えようとは思わないし、それが当たり前で疑問も持たない。

 

でも子供は、それで伝わる子もいるし、まだまだ普通の常識的感覚の時空間枠で生きてない子もいるし、捉える感覚自体がちょい変わってる我が家のお兄ちゃんみたいな子もいる。

 

大人側にもそんな時は余裕がないから、その場で私が「伝わってないよ、それじゃ子供達はこうやって勘違いして捉えてこう思ってるよ。それが伝えたいなら、まず自分の気持ちを伝えてやって欲しいことをやってくれるか聞いてみなきゃ。」と指摘しないと言葉足らずで傷つけたことにも気づかない。

そして、びっくりして子供達に本当にそう感じたのか聞き返し謝るの。

 

旦那にも子供達にもよく言うのですが、

 

「特定の相手に何かを伝えたい時は、自分がこうなら伝わると思う方法で言えば伝えたということにはならなくて、伝えたい内容が思いが相手にそのまま届かなければ意味ないの。だから、相手にきちんと伝わった感触があるかどうか確かめて、ないなら何故伝わらないか、相手がどう捉えたのかを確認しながら、その相手に確実に伝わる方法に変えて伝えなきゃね。」

 

ということ。

 

学校で嫌なことをされたという時などは本当にそういうことで。

 子供はすぐに、嫌だと伝えたけどやめてくれないのだという。

 でも、やめてほしいと訴えているのにやめてくれないなら、きっとこちらの本気で悲しい嫌だと感じてるこの気持ちが、そのまま相手に伝わってはいないんだよね。

 

それは人それぞれ思うことも感じることも耐性も違うんだから仕方のないこと。

 

でも、伝わってないなら伝えてないのと同じこと。

 

そんな時は、やってほしいことを伝える前に今の自分が感じてる気持ちをそのまま言ってみて、こうして欲しいけどやってくれるか何故聞き入れてくれないのか聞いてみることが大切なのよね。

 

そして場合によっては他人に力を貸してもらうこと。

 

表現したり発信したりという不特定多数相手の場合と違い特定の相手に伝える時は、感じ方も思いも人それぞれで自分とは違う感覚を持っているということを忘れずに、様々なアプローチ方法を考えて自分が持っているものをなるべくそのままに相手に届けたいな♡

 

「ありがとう」一つとっても、「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳す日本人特有のセンスで、その時自分の中に広がる暖かさや大きさを必要な相手にそのまま届けられるように、もっと言葉も行動も表情も、削ぎ落としてシンプルに純粋に磨いて行きたいなと思います。

自分で選んでるを最後まで引き受ける

ふと、生きているということは、常に小さなことから大きなことまで選択していくことなんだなぁと思いました。

 

小さい頃専業主婦の母親がたまに、疲れた疲れたとイライラしながら、誰も手伝わないと文句を言いながら、私にはそんなに重要事項と思われない家事を必死になってやっているのをすごく嫌だともやもやとしたものを感じていました。

 

私も専業主婦で主に子育てと家事をして、自分を楽しみながら過ごしています。

 

だからお母さんたちと話すことが多いのですが、やはりしんどくてもやってるのにとか少しは手伝ってくれてもいいのにとかの愚痴が出てきます。

 

やはり私はどうしても、疲れたならやりたくないならやらなきゃいいのに、死ぬほどのことじゃないじゃない?…って思ってしまう(笑)

私はやらないでのんびり休むほうを選んでしまうから。

 

結婚して子供を産んで育てていく過程では、

 

家事

子供の世話、子育て

自分の楽しみ

 

細かくあげていけば無限にやるべきこと出来ることがあって。

 

でも、自分は一人だし、気力体力にも限界はあるし無理をすれば心身に不具合が生じるのは当たり前。

 

だから、優先順位を決めて選んで、その中で当然手放さなければならないことも出てくる。

 

でもね、どれをとってどれを手放すか選んだのは自分だよね?

 

手放すと決めたものはきっちり手放さないと、そもそも全部は持てないからやれないから手放したんだよね?そしたらせっかく選んだものも一部取りこぼすことになるかもだよね…。

 

 

ある時、なんで疲れたのにそれでもやることを選ぶのか聞いてみたの。

 

そしたら、

 

やらない自分、そんなダメダメな自分に出会いたくないから頑張る!

 

やらないでそのままの状態を見ながら過ごすのがストレスだから!

 

ってことらしい。

 

なるほどね〜〜(°▽°)

 

ていうことは、疲れてるけど頑張ってやったからこそ、完了した達成感ときちんと出来る立派な自分は手に入ったじゃない?

 

それなのに、手放したはずの疲れたからやりたくないの疲れたのにを手放しきれないでそこにフォーカスして、

 

疲れてる時くらい手伝ってくれたらいいのに

 

とか

 

頑張ってやるの結構大変なのに当たり前と思ってたいして感謝もしない

 

って、、、なんか違うよね。

 

 

疲れたからやりたくないなら、

 

やんなくても死なないし、今日は休む♡

 

も選べるし、

 

やりたくないけどこのままなの気持ち悪いから、お願いやって♡

 

も選べるよ(^O^)

 

 

自分で手放してこっちを選んだからこそ得られたものを最後まで責任持って引き受けたら、小さなことでもめちゃくちゃ幸せ感じられるものよ♫

 

子供が受け取るはずの…

今日は幼稚園児の末っ子が週末の展覧会の振替休日でした。

 

一昨年くらいまでの私なら、たまの平日休み子供達と何してどこで楽しもうかと、どんな体験させてみようかと意気揚々と想像膨らませて予定を立てておりました。

 

が、今はもうそんな気はサラサラなくてむしろすっかり忘れてた…。

 

今日は私が所属している陶芸ボランティアの活動日、しかも焼成で一日中制作に打ち込める貴重な日でした。

 

何の迷いもなく、休憩用のお茶菓子と子供が遊べる私の粘土を持って子連れで陶芸やりに行きました。

 

これが今の私の、末っ子そうちゃんの、普通。

 

連れていっても、みんな私の親に近い世代で可愛がってくれるし、絡んでからかって面倒みて、お皿作ってれば教えて直して手伝ってくれる。

 

適当に、彼なりに、作って歌って食べて楽しんでる。

 

私も要所で面倒は見つつも普通に手放し、自分の制作の時間に没頭。

 

彼は、ずっと作って欲しいと言ってたペンギンのお皿と、もう一つ小鉢を作成!

 

適度に手を出し形にはしてあげつつも完成度は求めず。穴が開いてなければお皿になるわってな具合で目を付けたり模様を描いたり、自分で作った感を大切にすること。

 

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帰りに寄り道して夕焼けに染まる富士山を眺めつつ帰ってきたら、お兄ちゃんに陶芸でお皿作ったこと、富士山見てきたこと自慢して、今度は一緒に行こう!と。

 

今日見せてもらったヘンゼルとグレーテルのお家と人形に感化されて、マリオのお家を作ろうねと、一所懸命お兄ちゃんを誘ってました。

 

私はこの10年程、こうやって自分が楽しみたいフィールドに子連れで行くことが出来ませんでした。

 

どうしても、手放せなかったのだと思います。

 

今は子供の事は、自分のことも子供のことも周りの人も全面的な信頼の元に、安心して手放し自分のことに集中することができるようになりました。

 

子供が受け取るはずの感じるはずの経験という宝物を、心配とか迷惑とか色々な理由をつけて母が奪ってはいけなかったのですよね…。

 

私がこれまでに大切に育んだ我が家の子供達は、今いるこの世界で、自分で考えて見つけて交流して、楽しみ愛され学ぶことが出来るのだから。

 

だから私は私で安心して、子供らに負けないように恥じないように全力で自分に集中し、学び楽しむのです。

 

自分が見ているこれが今の私の世界✨だったら世界はきっとものすごく優しいのです。