この子達がスマートに世界を変える⁉️

今とても面白い本を読んでいます。

 

能楽師の安田登さんの書かれた、「あわいの力」という本です。

 

安田さんは能の中でワキ方という役割を担っているそうです。

あの世とこの世、自己と他者、時間と空間、あっちとこっち、それら2つのものが出会う界隈をあわいという。

そしてワキはあわいを生きる、両者を繋ぐもの…。

 

まだ読み途中なのですが、その中に

 

負けたふりをして優位に立つ「あわい」の力

 

とありました。

 

まさに、最近ものすごく強く感じていたこと。

 

世の中には、9割型もしくはそれ以上の人がいるいわゆる常識とか普通とかいうところがあって。

 

そして、それに異論を唱えたり他の主張があったりする、少数派の派閥があって。

 

私も子育てをしていて、普通をそのまま何の疑問も持たずにどっぷり浸かってそこにいることは出来ないし、だからといって少数派の自然育児系のことも大好きだけどその中にどっぷり浸かってそっちにいるのも気持ち悪いし、なんとも中途半端なこの感じとモヤモヤしていたのがつい昨日のように思い出されます。

 

それって私、実はあわいにいたんですね!なんだかわかってすごくスッキリしました。

 

そして、ゆとり世代と言われている方たちが社会人になってこれまた色々言われている今、少数派の方達の立場が随分しっかりと確立されてきて、場所も意見もしっかり主張できるようになってきたんだなぁと感じます。

学校に行かないことを隠さなくても良くなってきたことなんてその象徴なのかなと。

 

そんなことを考えていてふと、そしたらうちのお姉ちゃん達10歳ちょっとの子供達はまた、その次の世代だなぁと思うのです。

 

なんというかね、常識の範囲内になんともなくマルッと収まっているのですよ。

我慢することも無理することもなく当たり前にそこにいて。

嫌なことや興味ないことあっても、そこにいることをもうすでに受け入れちゃってるから、そこは特に感情入れずにサラッと流すようにこなし。

でもその中で、たとえ小さな事でも、楽しめること自分のツボにはまることを何かしら見つけて少しでも気持ち良く過ごす。

楽しいことや興味湧くことは、とにかく楽しみ味わい尽くす。

その中で、共感してくれる先生とはグイグイ仲良くなって取り込む。

だけど、どの分野でも決して優等生ではない。

何もない時間はとりあえず枠から出なければ何でもよしとして、とにかく愉快に過ごせるネタを使って、男女もタイプも好みも全て吹っ飛ばして周りを巻き込んで楽しみ尽くす。

 

決して目立たないのに、我慢も無理もせず、誰も不愉快にさせずに好きなように選んで楽しむ。

 

知らないうちに巻き込まれて流れが変わり、なんだか全体が彼女らの色合いにゆる〜く染まって行く。

 

この前のダンスの発表を見て、学校って今の校長先生ってこんなに理解ある感じだったっけ⁇ってなんだか楽しくなってしまいました。

 

イメージ綺麗じゃないけど、なんだかシロアリみたいだなぁと。

だって、気づかないうちに侵食して土台からズドンといかれたら、もう全部取り替えるしかないじゃない(笑)

 

彼女らのやり方は実にスマートで、あれは潜在的に持ってるセンスなんだろうなぁ。

 

教えることよりも学ぶことの方が多いものですね。

 

ずっと夢だった子供と一緒に写生会❣️

子供の頃の思い出✨

 

お友達と一緒にワイワイ キラキラ ニコニコ✨

 

私、実はそういう思い出ほとんどないんですよね〜(笑)

 

幸せな体感として未だ強く残っている思い出は、写生会。

 

外に出かけて行って、一日紙と景色に向き合い私の世界を描き出す💕

 

ずっとずっと、子供と一緒に楽しかった写生会をしたいと思っていて。

 

マヤ暦でツォルキン最終日の今日やっと実現しました。

 

幼稚園の末っ子と蝋梅鑑賞しながらの写生会✨

 

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ほんの一時だったけど、確実に私の中では何かが動きだした大きな一歩。

 

次は、神代植物公園に大好きなクリスマスローズを描きに行く予定です😊

もっともっと受け取り、選び取り、取り入れるセンスを

最近、カウンセラーさんや施術者の方とお話しをしていて、はたまたそういう活動をされている方のブログなどを読んでみて、突然ふと感じたことがありました。

 

みんなみんな、私は人の溝を埋められる、癒してあげられる、欠けている何かを与えられると思って活動しているんだなぁと…

 

私には、ある意味衝撃でした。

 

「え!!!こちら側から人が人を癒すのは救うのは埋めるのは与えるのは無理じゃない?それってきっと自己満足だよね…。」

 

ていうのが、私の正直な感想でした。

あくまでも、私がふとした様々な流れから私はそう感じたというだけの話なんですがね。

 

私はそういった活動はやっていないので、唯一私が与える方の立場でその関係が成り立ってるのはやはり子供に対してかな。

 

そして私が思ったのは、こちら側から与えられる〇〇できるではなくて、受け取る側が受け取れるか、選べるか、取りにこれるかなんだろうなぁということ。

 

だから与える側として出来ることは、相手がどうやってどれだけを受け取れるのかは相手の力量だからそこは手放すこと。

 

お仕事である以上枠組みはあるし制限も理想もあって、それを選んでくれる人に向けて自分の価値観の中でしっくりくるサービスだけを提供していくのは当たり前のことだと思います。

 

だから、自分が出来るとしたら受け取る能力を高めていくこと。

選んで取りに行く、そして自分のフィールドの中に自分が一番心地よい方法で罪悪感持たずに落とし込んでいくことかなぁと。

 

特に女性には、結婚して独り身じゃなくなった時、子供を産んで手も離せないし時間も余裕もない時、その中でお金も自由にならない時、そんな自分だけではどうにもならない状況が結構長く続くと思います。

 

でもね、その中でも自分さえ自分の心地よさを快適さを嬉しさを感激を知っていれば、自分の今いる状況の中で受け取れるものって案外たくさんあるんですよ!

 

まずは開いて世の中を見渡してみること✨

 

そして、自分のご機嫌とるのに重要な要素をピックアップしておくこと✨

 

心地よさの体感を常に忘れずにいること✨

 

人も世の中もこの上なく優しいんだなと実感している今日この頃です。

 

 

きっとね、かけらを見つけたいと、溝を埋めたいと、癒されてまっさらになりたいと求め続けて、それでもやっぱり絶対に完全には叶わない。

でもそれが人間らしさで、そこが人の魅力なんだろうなぁと思います。

 

それは、このブログの題名の由来にもなっている源氏物語を読んで、光源氏の在り方をみてそう感じたのでした。

求めたものは全て手に入るのに持っているのに、決して完全に満たされた自分には出会えないという人のこの世の儚さ…なんとも深く魅力的な世界観です。

 

これはまたそのうちに気が向いたらで(笑)

集団のエネルギーを肌で感じられる喜び❣️

今日は小学校の学校公開でした。

 

その中で、お姉ちゃんの学年がパフォーマンスキッズ・トーキョーなるワークショッププロジェクトに参加したようで、そのダンスパフォーマンスの発表がありました。

 

一人一人を見れば、決して難しいことをしているわけではないけれど、それが集まり、離れ、絡み合ってもつれあって、リズムが変わり空気も変わる。

そうして、始まったが最後、あとは流れるようにその時その一瞬だけの生のエネルギーを使った作品が生まれて消えていく。

 

その場に居合わせた人だけが感じて受け取ることができる芸術作品。

 

これって、一人じゃ出来ないのよね。

 

130人ほどの色んな個性を持った五年生がいて、指導してくれるダンサーやドラマーや振付師の方たちがいて、プロジェクトを見つけた図工の先生がいて、取り組むことにした校長先生と担任の先生方がいて、楽しみに観に来る保護者や地域の人たちがいて…。

 

参加してる子供たちも、大きい子も小さい子も、目立つ子も地味な子も、動くの好きな派手な子も恥ずかしかったり動くの苦手でぎこちない子も、やる気のある子もない子も、こういう勉強外れた課外だと途端に輝ける子も、ルーティン外れたこういうのは本当に苦手っていう子も、いろーんな子供たちがみんなそのままでよくて、そのままでいてもその集団のエネルギーカラーには何の影響もなくて。

 

個人でいる時は、自分のキャラは自分次第だから、嫌なら不満なら自分でどうにかしなくちゃどうにもならない。

 

でも集団のエネルギー集団の色となった時は、自分はそのままでも、それ以上のあり得ないくらいの輝きを放ったその一瞬を、自分もその中の一員として自分のこととして肌で直接感じることができるのよね。

 

わたしはいつもこれが学校の良さだよなと、私が親として唯一子供に与えてあげられない貴重な経験ありがとうございますと感じています。

 

最近学校に行かない行けない子供たちのことをとてもよく耳にします。

そして、それでもいいよっていう話もすごくよく色んなところで目にします。

 

それについていいとも悪いとも私は言う気はないけれど、そうじゃなくてこういうステキなこと生で感じてみて欲しいなと思いました。

 

素敵な体験出来たことに感謝します✨

 

ありがとう ありがとう ありがとう。

子育てしながら自分も満たす選択を❣️

先日、赤ちゃん子育て中のママさん含めて自分を満たすっていう話をしてました。

 

自分を満たすことをするって考えた時にね、自分が好きなことをするとか気持ちいいことをするっていうのは考えつくと思うのね。

 

でも私ね、例えば小さな子供を育てた人なら誰でも必ずしてきた子供を公園に連れて行くっていう行為でも、いちいち自分を満たすように選択して行動してきたなぁと思ったのですよ。

 

もちろん公園遊びだから第一の目的は子供を満足に遊ばせてあげること。

 

その為にまずは先入観を捨てて、子供をよく見て、この子はどういうことが好きでどんな風に遊びたい子なのかを知ることからだよね。

 

・外にいるのが、出かけるのが好きか

 

・とにかく動いていたいのか

 

・遊具で決まった遊びするのは好きなのかすぐ飽きちゃうのか

 

・生き物とか植物とか他の子が遊んでる様子を観察したりみつけたりが好きなのか

 

・砂場や石ころや落ち葉など、体感を楽しむのが好きとか

 

・誰かいないと遊べないのか、誰かいても一人でも変わらずその時に楽しいこと見つけて遊べるのか

 

・電車や消防車や飛行機、工事現場のショベルカーや植木屋さんの剪定とか道すがらの発見が楽しいとか

 

・花や風の香りを感じながらぼーっとしてるだけで幸せとか

 

子供が公園に出かけるだけでも楽しみ方は色々。

 

そして、お母さんの好みも同じく色々。

 

・外にいるのが、出かけるのが好きかめんどくさいかどうなのか

 

・子供と一緒に遊びたいのか遊びたくないのか

 

・遊び待ちは楽しい姿を見ていられるならいくらでも出来るのか、待ちたくないのか

 

・いつも同じ時間帯に同じ公園に行くルーティンがいいのか、あまり行けないところに行って色々な珍しい発見をしたいのか

 

ほらね、たくさん選べる項目はあるの。

 

その中で、子供の好みや傾向と自分のやりたくないことは避けて何か自分も楽しめる要素も入れて自分なりのこの子との公園遊びをプロデュースするの。

 

 

例えば我が家の真ん中の坊主の場合は、

 

一人じゃ遊べないから遊ぶ目的で公園に連れてくと手間の割には遊ばなくてイライラするの。

そのかわり、遊ぶ目的でない私の用事の行き帰りの散歩とかは寄り道しつつ眺めつついくらでも遊んでられる。

男の子なのもあり、電車とか飛行機とか救急車とかショベルカーとか大好きでいちいちその度に眺めて立ち止まる。

だから、自転車でサイクリングがてら30分以上かかるような遠くの美味しいパン屋さんでお昼を買って食べよう!とかを目的にして、ついでにその近くの珍しい遊具のある公園に立ち寄ってちょこっと遊ぶとかよくやってました。

すぐ飽きちゃっても公園目的じゃないからイライラしないし、美味しいパン食べれるし、サイクリングがてら色々な発見出来るからそれも子供の体験になって思った以上にエネルギー使って遊んだ感満載になるし、いいこと尽くしなのですよ。

 

あと遠出するエネルギーがない時は、保育園の園庭開放でお兄ちゃん達が色々楽しそうに遊んでいるのを間近でじっと観察して体感した気になって、最後にはちょこっと仲間に入れてもらえて、すっかり一緒に給食食べる気になったところを泣きながら帰ってきて、気を紛らわすのに近所の池でカモを見ながらちょこっとお昼つまんで帰りのチャリで爆睡とかね(笑)

 

あとは、例えば電車に興味を持ったらね、それを分析して広げていくことをプロデュースしてみるの。

 

電車の動くのに興味があるのかなぁ?なら飛行機は?消防車は音と動きと連動してるし赤の色のインパクトもあるし。メカチックなボディがいいなら、会社の横に置いてある不思議なロボットはどうかしら?早く動くけど、鳥とか虫はどう?小さくて動きが不規則でだめ?

 

とかね。

 

ポイントは、あっ!て一緒に見るだけで、うるさく解説したりしちゃダメ。あくまでも、感じてる様子を認識してるかどうかを観察していくの。

何に興味あるのかそこに親が興味を持って色々探しながら一緒に体感していくと、どんどん興味が広がって好奇心が強くなっていくんだよ。

 

ほらね、だからやっぱり子育ては面白いのだよ〜

 

 

お母さんは守護天使⁉️

昨日お友達と、お母さんはまず一番初めの応援団だよねっていう話が出ました。

一番近くで応援して、感動して、伝えて、動いてくれる人。

 

周りを見ていても、色々な発表の場、会の場、展示、様々な子供関連のことに参加するとやはりそう言った彼女と同じような感覚で子供を作品を見ているのをものすごく感じます。

 

私それをふんふんと、すぐにはまとまらなかったけど、ずっと長い間感じていた私は違うんだよなぁっていう若干のズレをやっぱり感じながら聞いていました。

 

そして、夕方になってから週末子供達の展覧会と書き初め展を観に行ったことをフェイスブックに記録の為に投稿したの。

 

そしたらそれを見て、今は離れたところにいる大好きな友達が、私の親としての在り方を褒め称えてくれたの。

彼女とはお互いに、それぞれが当たり前に持ってるところに憧れ合って惚れ合ってるまさに私がしたい理想の恋愛してるような間柄。

 

もうめちゃくちゃ嬉しいよね。

 

そして思い出したのは、初めての赤ちゃんであるお姉ちゃんが産まれた瞬間におもったこと。

 

お姉ちゃんは、逆子のままで、心音突然聞こえなくなり、腰椎麻酔の緊急帝王切開で産まれてきました。

 

出てきて、部屋の向こうで呼吸と体温の確保をしてからこちらに顔を向けて連れて来られるのを見て、実家で見たアルバムにあった赤ちゃんの頃の自分が連れて来られた‼︎と思ってびっくりして、自分の赤ちゃんてこんな感じなのか⁉︎っていうのをすごく覚えています。

 

そして同時に、この子はもう何がどう転んでも私が愛してるのは当たり前のことだから、私以外の人たちにどれだけ愛されるかだなぁと思ったの。

だから、私以外の人たちにたくさん愛される為にという信念で子育てしようって。

 

多分ね、未だにずっとその感覚なんだと思う。

 

私はあなたがどうあっても、どんな作品作っても、どんな出来でも、別にどうでもいいしどうあってもいいの。

もう、味方なのは愛してるのは当たり前すぎてあえて表すようなことでもないから。

 

ただ、あなたがこれを作ることを、ここでやっていることを、どれだけ楽しんだのかはものすごく興味のわくところ。

 

せっかくだから、楽しんで楽しんで、傷ついても悲しくてもそれさえも楽しめる強さを身につけて、その為ならいくらでも笑って崖から突き落とせるしね。

 

だって、私がついてるし大丈夫でしょ。

 

きっとお母さんてそんな位置付けかなと。

 

ただただひたすらそこに在るっていう感覚。

 

これって、この人が私の中から産まれ出たっていうのを体感として知り得ているお母さんしか出来ない芸当だなぁと思うのです。

 

まるで守護天使のようだね。

食育⁉️ちょっと待って、その前に…

我が家のお姉ちゃんが今11歳。

 

産まれた頃はまだそうでもなかったけど、それから数年してちょこちょこ食育とかいうキーワードを見かけるようになって。

それでも最近は当たり前になったからか、少し前ほどアピールされてるのを目にする機会も減ったような。

 

でも、食育というのを見るたびに思っていたことがあります。

食育というと、何でしょうね⁇

 

食べ物は大切に

感謝して

バランス良く

よく噛んで

 

とかでしょうか?

 

もちろんとても大切なことで当たり前のこと。

 

でもね、その前に…

 

お腹空いた〜食べたい‼︎

とか

美味しそう〜嬉しい‼︎

とか

美味しい〜幸せ‼︎楽しい‼︎

とか

お腹いっぱい〜大満足‼︎

とか

 

そんな感覚的なことを、今の子供達っていつも感じられているかなぁと思う場面がすごくあります。

 

こぼさずに!

とか

散らかさない、汚さない!

とか

残さずに!

とか

これもこれも、色々もっとたくさん!

とか

遊ばない、動かない!

とか

 

お母さんたちが自分で感じて決める前に、一般的なことを普通に考えずに押し付けてしまったのが残っているのかもなぁと。

 

私は、赤ちゃんの時から一貫して自分のポリシーでこれだけはってことだけ教えて守らせて、あとは彼らの感覚を確認しながら食べさせてました。

 

歩きながら、動きながらは食べない!

食べ物では遊ばない!

食べたい時に食べたいだけを!

子供でも、今の食事は出ているものだけを!

お腹が空いたのか、口さみしいだけなのか!

 

先日お休みの日に突然お兄ちゃんのクラスメイトが遊びに来てね。

何もなかったから、いつもうちで食べてる

 

甘酒入りココア蒸しパン

豆腐白玉をきな粉味と葛入りみたらし味

 

大量に作ってデデンとテーブルに出しておいたら、うちの坊主2人を筆頭にもしゃもしゃ食べ尽くしてた(笑)

 

今時な華やかなお菓子でなくても、うっめーって嬉しそうにモリモリ食べる姿を見て、食べるってこういう事だよなぁと嬉しくなったひとときでした。

 

食べることってとても幸せ感じることなの、ちょっともう一度その感覚思い出してみたらいいかもね。